こどもの健康を一番に、宮城県名取市の小児科、かとうこどもクリニック

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「医師としてのスタート II」

研修プログラムはないものの、私はとても充実した日々を送りました。I先生の人柄もあり、小児科は病棟と外来が一体化し、家族的な温かさがありました。 当時、市内の小児科は病院のほかに、小児科医院が一つあるだけでした。当然、午前の外来には100人を超える小児が押し寄せます。私とI先生は1日交代で朝から外来と病棟回診に分かれ、回診後は二人体制で外来をこなしました。おかげで、混雑する外来と病棟の業務をさばけるようになりました。日曜日も病棟回診は欠かせません。I先生は月に1,2度の日曜日の日直を受け持っており、この時だけは私にも自由な時間が訪れます。
 I先生の口癖は「余計なことはするな」でした。不要な検査や投薬・治療を戒めたもので、これは私の今の診療姿勢をなしています。検査は、例え血液一般検査であっても実施目的を明確に、また投薬は診断名に対する適応薬で行うべし、です。言うは易く行うは難し、今でも肝に銘じています。 大曲の冬は雪が深く、深夜に帰ると玄関のドアが雪で開かないこともありましたが、苦にはなりませんでした。診療に少し慣れてきた頃、空いた時間に胃二重造影法や成人の内視鏡検査の手技を見学したい旨を恐る恐る願い出ると、I先生は微笑んでOKをくれました。激しい腹痛や吐下血を呈する小児が入院する度に、その必要性を痛感したのです。当時の日本では、小児科のsubspecialityとしての消化器科は確立していませんでしたが、この時すでに「小児の消化性潰瘍」が頭にありました。
 また、他科の先生達に救急患者が搬送された時には連絡をもらいました。時には、薬局にも侵入して近しい薬剤師から薬包紙の包み方など教科書にないことを学びました。程なくして、私の行動を知ってか、I先生は私を「鉄砲玉」と呼ぶようになりました。 一方で、大曲の花火大会の夜は、病棟で音を楽しむだけでした。鉄砲玉の異名を持つ私も研修医、病院の外へ飛び出ることはなかなかできませんでした。
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