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「医師としてのスタート I」
医学部の卒業直前まで、進むべき進路、専門科が決まっていませんでした。一方、すでに小児科を選んだ数人の同級生は、早々に名だたる研修病院を決めていました。「名だたる」とは、循環器や血液などの専門性subspecialityを持つスタッフがいる総合病院との意味です。従って、私が小児科を決めた時点で、そのような研修病院は残っておらず、スタート前にすでに周回遅れの様相でした。
卒業前年の夏、小児科を一人で守っている県外の総合病院を3か所ほど見学しました。まさに売り手市場であり、見学後にはレストランでステーキが振舞われたりもしました。最終的に、私は「秋田美人」の里の一つ、大曲(現、大仙市)の総合病院に決め、1979年の秋に赴きました。小児科のI先生は、大学医局では臨床家としての評価が高い人物でした。ちなみに、病院見学時の昼食は食堂のカレーライスで、私はステーキよりカレーに魅力を感じました。勿論、大曲が母の郷里であったことも大きな理由でした。生まれも育ちも仙台の私ですが、夏休みはよく大曲で過ごしました。
前任の研修医M先生と1か月間オーバーラップして、引き継ぎを含めて指導していただきました。M先生は私を慮ってか、病棟のナースも誘って田沢湖へ車を出してくれました。人生のスタートを切ったという感慨も相まって、透明感が抜群の田沢湖ブルーは以前訪れた時より一層、目に映えました。いよいよI先生の指導の下、研修医生活が始まりました。
卒業前年の夏、小児科を一人で守っている県外の総合病院を3か所ほど見学しました。まさに売り手市場であり、見学後にはレストランでステーキが振舞われたりもしました。最終的に、私は「秋田美人」の里の一つ、大曲(現、大仙市)の総合病院に決め、1979年の秋に赴きました。小児科のI先生は、大学医局では臨床家としての評価が高い人物でした。ちなみに、病院見学時の昼食は食堂のカレーライスで、私はステーキよりカレーに魅力を感じました。勿論、大曲が母の郷里であったことも大きな理由でした。生まれも育ちも仙台の私ですが、夏休みはよく大曲で過ごしました。
前任の研修医M先生と1か月間オーバーラップして、引き継ぎを含めて指導していただきました。M先生は私を慮ってか、病棟のナースも誘って田沢湖へ車を出してくれました。人生のスタートを切ったという感慨も相まって、透明感が抜群の田沢湖ブルーは以前訪れた時より一層、目に映えました。いよいよI先生の指導の下、研修医生活が始まりました。